ノイズという手段3

自分にとってノイズとは、リズムであり、コードであり、そしてメロディーだった。
様々な音の集合体として「ノイズ」というものがあるという事でもなく、作りながらこれはリズム的かもしれない、これはメロディーかもしれない、全てがそうした仮定の上に成り立っていた。もちろん今でもこの考え方や感覚は体に染み付いていて(作曲開始当時はじめからあったけれど)、これが証明と呼べるものはまだ出きていない。しかしこれは、あくまで「音楽の3要素」を否定するという目的のために行ったものであり、それが「音そのものの要素」にまで掘り下げる動機にもなっていた。だからそのためには、何でもやった。人が不快と感じるノイズから普段私達が聞き慣れている音まで、使えるものは何でも。そのうち「作曲」行為も放棄し、ピアノやエレクトリックを使った即興演奏にものめり込んだ。周りに全く理解されなくても平気だった。それでもやらなければならないという勝手な使命感をいつしか抱いていた。そもそも「理解」したなんて人から言われるのも妙な感じだし、ギリギリのわずかな共感を得られればそれでいいと思っていた。人が言う「音楽」じゃないものを作る事で、何か新しい感覚を見い出したかった。
以前にも書いたように、ノイズという概念が自分の音楽の構造にまでなった時、全てが崩壊したような感覚に陥った。まるでひとつのホワイトノイズのブラックホールに落ちたように、全ての音が分散され、やがて無音になった。いいか悪いかは別として、それが現実だったし、ある種の限界(悪い意味ではなくて)だったのかもしれない。
今から思えば、ノイズとの格闘は自分の音楽活動の中でのひとつの大きな壁のひとつだったのかもしれない。今から見れば、実際に思い描いていた音はその壁の向こうだったのかもしれない。たとえこれらの音楽への態度がただの理想論や極論だったとしても。 でも、それでも私はノイズという手段は音楽に必要だと思っている。
耳を開くために。 そして祈りのような想いと楽しむ気持ちを持って、次の音楽を作るために。
畑中正人
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