ある人の招待で自宅パーティーに招かれた。自宅っていったってすんごい豪邸。まぁ室内コンサートなんかあったりでなかなか楽しめたんだけど、一番印象に残ったのは、ある男性からの質問だった。彼とは途中から日本とドイツ(西洋人)との文化面の違いの話しになって、明治維新以降、日本の音楽教育の方針が一気に西洋音楽化されたことに関して、彼は「どうして日本人はそれを受け入れたんだ?」と聞いてきた。俺もうちの嫁さんも絶句。「え、おしつけてきたのはヨーロッパだろう」と内心思っていたが、嫁さんがすかさず、「西洋音楽は仕組みがはっきりとしていてわかりやすかったから、だと思う」と切り返した。そう、俺もそう思う。西洋音楽理論はヨーロッパ合理主義の財産のひとつだし、理路整然だし。そう思うと同時に俺は心の中で問いはじめた。俺はいままで西洋音楽ってのは植民地と同じように各地の民族から音楽を奪い、我らの音楽が最も合理的で素晴らしいものだなんて精神で西洋音楽理論とその楽器たちの布教活動をしていたと思っていたし、事実そうだと認識していた。しかし彼の何気ない言葉を聞いて、「あっ、受け入れてしまった日本人にも問題があるのかもしれない」と思った。
さらに彼は「我々は日本の伝統音楽を聞いたら奇妙に感じるし、モーツァルトを聞くと安心する。なのに日本人はモーツァルトを聞くと奇妙に思わないのか。」とも言っていた。別に彼は優越感や悪気があってこんな事を言っているわけではない。だか、ここに文化面の大きな違いがある。 違いがあること自体に問題は一切ない。だがこの違いを感じることができるかどうかが重要なのだ。西洋人(もちろん全員じゃないよ)にとって音楽とは割り切れるもの。つまり12音階の組み合わせであって、変数や小数は存在しない、もしくは存在していたとしても、それは「ストレンジ」な存在なのだ。
それに対して非ヨーロッパ地域の音楽はそれぞれ多種多用な音楽の仕組みがあって必ずしも12音階では割り切れない。ドとドのシャープの間にさらに音を持つ民族もいるし、「リズム」なんて概念ではない方法で時間を刻んでいる音楽だってある。それも目的も多種多様で「音楽」ではなく「儀式」として音を出すことだってある。そこでは「楽しみ」のためじゃなく、「祈る」ために音を出す。で、俺は何か言いたいかというと、俺はそういう西洋から見た「辺境」から楽器や音楽をかっさらって持ち帰って、てめえの神様とくっつけて、それでお祈りして戦争続けて、民族虐殺して、それでまた植民地を増やして(日本人もやってたことだが!)なんていう西洋音楽の背景に何かを提示したくて、俺は音楽をやっている。それも今は変わらない。
だから搾取してるって点じゃピアノなんか元をたどればアフリカから来ているんだし、ただ人の曲をかけてつなげて満足してるDJなんかも、やってることはただの搾取じゃねえかと思う(ちゃんと取り組んでいる人もいます)。ソウルがいい、いいって、いいのは本家本元のライブだろうし、ジャズだってそうだ。初期のヒップホップはサンプリングはしてもきちんと彼等の言語で音楽をクリエイトしていた。それが、今度はMTVで女はべらかして白人への優越感丸出しで過去の恨みをはらしてるようなPVがメジャーに出てて、クラブじゃあ他人の音楽で皿回してるような連中が平然と音楽屋のお面かぶってるっていう現状で、じゃあ自分は何を音楽で提示できるかってことを日々考えているってことを言いたいんだすわ(注:もちろん音楽を楽しむってことでは必要な存在だし、俺の能書きとは別の次元で真剣にやっている人たちもいます)。
しょせん俺がやれることなんて微々たるものだし、こんなたいそうな大口は、はける立場になってから言えって感じだけど。とにかく、こうした故意に忘れられた歴史や現状にヨーロッパはもっと目を向けるべきだし、日本の音楽教育もその辺を考慮してほしいと思うのね。・・・まぁ、またこんな事を口ばしってもしゃーないか。とにかく、そんなことを会話を聞きながら考えていると、改めてヨーロッパに来て良かったと思った。むかし頭で考えていた事が肌で感じられるからだ。これらの思いはそのうち音楽活動の中で提示することになるだろう。
畑中正人
http://www.hatanakamasato.net/