ノイズという手段 2

札幌へ移り住んだ事は少なくとも当時の自分にとっては大きな出来事だった。北海道の北のド田舎からいきなり都会でのひとり暮らし(といっても最初は下宿だったが)。そんな生活環境の変化の中で一番驚いたのは街の音だ。とにかくうるさい、その一言に尽きる。故郷では夜に耳をすませば近くの湖の白鳥の鳴き声しか聴こえないというくらい静かだったのが一変、一日中音が聴こえる。この事は自分の音楽にも少なからず影響を与えた。札幌移住以降、自分の耳と作品に占めるノイズの割合は次第に増していった。音楽学生をやっていた頃からプロとしてその道をスタートさせた頃までは、それらの耳の変化を意識しながらも、ノイズをひとつの音色、ひとつの手段として所謂楽音による音楽の中に織りまぜているだけだった。つまり楽音がメインでノイズがサブ。でももっと別の道はないか。そんな手探りの状態の中で象徴的な出会いをする。それが96年のNMAの沼山さんとの出会いだ。
当時僕は自分自身のノイズへの興味、そしてそれを作品としてアウトプットする方法を模索していた。そんな時、NMAのナウミュージック・ワークショップが始まるというお話を聞き迷わず参加する事になった。そしてそのワークショップとNMAのフェスを通じ宝示戸亮二さん、内橋和久さん、大友良英さんなど第一線の音楽家たちと出会うことになる。そのワークショップの中で経験した即興演奏も決定的な体験だった。それまで単にひとつの手段としてしか解釈できなかったノイズが、ひとつの音楽の構造として自分の中で鳴り始め、ノイズだけでも音楽が成り立つ事を体で知った。と同時にいかに人間の耳は片寄っているのかを知った。これらの体験を通じ、ようやく自分の中で楽音とノイズの間の境界線がなくなっていった。これで作曲でも演奏でも、何の恐れもなくどんな音でも使う事ができる、そう思った。そして何よりフェスで見た彼らの演奏が、自分にはとても逞しく、そして美しく見えた。これらの経験は札幌での活動に大きな影響を及ぼした。 しかし、その後違う問題にぶち当ってしまう。ノイズという単なる手段から創作の方法、もしくは自分の音楽の構造にまでなっていった時、観念的にフラットの状態になったと思いこんでいた自分の耳の価値基準が実は別の視点から崩れはじめていたという問題が起きてしまった。この問題についてはまた別の機会に。
畑中正人
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