大きなきっかけ、そしてそれよりもっと大きな感謝を。

僕にはお世話になった人がたくさんいる。その中でもプロとして駆け出しの頃に本当にかわいがっていただいたのが、西村英樹さんだ。西村さんは札幌を拠点に編集、出版にたずさわり、主に「地域」というテーマのもと、様々な活動をされていた。僕は95年、札幌の北3条通りの歴史をテーマに開催されたアートイベント「ポロメンタ」に当初ボランティア・スタッフとして参加し、そこで発起人であった西村さんに初めて御会いした。歳は結構違うのにはじめから妙に合うなと思っていたら西村さんは礼文島生まれで利尻育ち。しかも、僕が小学生の頃よく目にしていた幌延町周辺の核廃棄物処理場建設に反対する運動の中心人物だった。そんな事もあって僕は音楽家として参加するというよりは雑用から来日するアーティストの作品作りのサポートなど、出来る事は何でもやった。とにかく、この人と何かをしたい、何かを動かしたい、その一心だった。とにかく西村さんに常に迷いはなかった。

北3条通り沿いにある札幌で一番古い「岩佐ビル」に当時、リーセント・ギャラリーが新しく移転した時もきっかけはそのイベントだった。そんな流れの中で「ポロメンタ」のために来日していたヤン・フート氏やオランダ在住のアーティスト、エーフリーとも知り合った。そしてこのイベントの母体で東京のワタリウム美術館が中心となって開催された「水の波紋」にも参加させてもらったのも西村さん、そしてもうひとりの発起人である樋爪さんたちの後押しのおかげだった。当時サリン事件の直後で街全体がピリピリしていた青山スパイラル前で即興によるパフォーマンスを行った。運送会社に壊されたシンセをぶっ叩きながらようやく音を出し、樋爪さんが舞踏と詩の朗読を繰り広げる。僕の仕事の原点にはいつもこの「ポロメンタ」、「水の波紋」そして札幌の北3条と、東京の青山という場所が焼き付いている。 そして、今僕はどういう縁か、東京でかつての原点となったこのエリアに住んでいる。

西村さんは僕に向かって「いいか畑中、アーティストにはなるなよ」そう言っていた。でも西村さんは早稲田大学文学部美術学科を卒業していて、自らも絵を書いていたし、音楽にも造詣が深かった。でも当時20歳だった僕は、その言葉の意味を完全には理解していなかったかもしれない。ある夜突然電話がかかってきて飲みにいく事もあった。たいてい最後は西村さんの仕事場でドンチャン騒ぎ。朝まで芸術、地域や地元の事、北海道の歴史と将来、時には白熱しながら時には大笑いしながら飲み明かした。 ちなみに初めて買った巨大な携帯電話の最初のメモリーは西村さんの携帯番号だった。

先日懐かしくなってワタリウム美術館を訪れた。自宅からもかなり近い。かつてお世話になった和多利さんにも御会いできるかもしれないので、新しい名刺と最近の作品を収録したCDを持っていった。 受付でチケットを買って、2Fから順に作品を見ていく。3Fでエレベーターを降りようとしたら、いきなり目の前に和多利さんが現れた。約10年ぶりの再会。お互い今度ゆっくりお会いしましょう、とお互いに慌てて話している中に西村さんの名前が出た。今度本が出るらしい、その中に水の波紋とポロメンタの事も書いてあるらしいとの事だった。実は西村さんとはここ数年御会いしていなかった。急に懐かしくなった。

帰宅後、住所録を取り出して西村さんの電話番号を調べるが、何故か載っていない。何人かの人を通じて連絡先がわかりそうな方に電話をかける。

西村さんは、昨年の今頃、亡くなっていた。 全く知らなかった。
つい最近まで知らなかった人もかなりいたらしい。何とも言えない気持ちになって、再び外に出た。かつて西村さんと肩を組んで歩いた道を思い出しながら。表参道から西麻布に出て外苑前経由で南青山方面をぶらついた。「いいか畑中、アーティストにはなるなよ」、その言葉の真意は西村さんが思っているものと全く同じかはわからないけれど、きっとあの頃の自分よりは理解しているつもりだ。

でもさ、西村さん、まだ若すぎるよ。常に潔かった西村さんの事だから後悔はしていないと思うけど。

かつて演奏したスパイラルの前で、納得がいかない自分の演奏と暑さでうなだれた僕の肩を笑いながら叩く西村さんの笑顔といつも愛用していた西村さんのカバンの色がフィードバックしてくる。 翌日、西村さんが書いた「夢のサムライ」を買った。これは北海道にビールのはじまりを作った薩摩人、村橋久成の生涯を追ったものだ。本を開いても西村さんの笑っている顔ばかり浮かんでくるのでまだ本文を読み始めてはいない。でもこの本が手元にあるというだけで、妙に意識がクリアになっている。僕がドイツに行ったあたりから西村さんとは急に連絡が取れなくなった。そして丁度去年の今頃メールを送ったら、アドレスが消滅していてそのまま返信されていた、その事がずっと気になっていた。その理由が久しぶりに訪れた場所をきっかけにわかるなんて、本当に皮肉なものだ。
この本には西村さんの長年の情熱がみっちりと詰まっている、そう思うと涙が勝手に流れた。

まるで父親のように、兄貴のように、時には同級生のように接してくれた西村さん、本当に言うのが遅くなっちゃったけど、お疲れさまでした。
そして本当に本当にお世話になりました。一緒にお仕事ができて心から楽しかったです。また会って旨いビールを飲みながら大騒ぎが出来ないのが残念です。もっとたくさんいろんな話しをしたかったのに悔しいです。 あの頃よりはいくぶんまともになった曲を聞いてもらえないのが本当に寂しいです。
でも今頃落ち込んじゃっても迷惑をかけるだろうから、約束します。西村さんのように潔く、真実を見つめて生きていきます。

当時、僕らと交流のあった人たちは皆この事を知っているのかなぁ。皆海外にいったり、違う土地に住んでいるだろうから、もしかしたらまだ知らない人がいるかもしれない。もしもいまこのサイトで知った、当時ポロメンタや水の波紋で西村さんと関わった人たちがいたら、どんな形でもいいから祈ってくれると嬉しいです。

最後になりますが、西村英樹さん、本当にありがとうございました。 改めて、心より御冥福をお祈り致します。

畑中正人
http://www.hatanakamasato.net/