相変わらず休んでいるのか休んでいないのかわからない日々だが、制作の合間をぬって新作のアルバム制作に着手しはじめた。思えば、新作と呼べるものは2、3年作っていなかった。何となく音楽制作の仕事に追われていまに至ってしまった。1作目の「USE」、2作目の「Period」は「どこまで音を詰め込められるか」というテーマのもと、ほぼ同一ラインとして作られた。音色はとにかくノイズを含み、打ち込みは複雑化し、歌ものの場合はできるだけ歌詞の「意味」を排除し、何とか音楽じゃないものを作ろうともがいていた。それは巷にあふれる大量生産の音楽に対する批判の意味もあったし、自分の怒りのハケ口でもあった。それが、平戸健司氏のコンテンポラリーダンスのために書いた作品「オルナメント」(98年)で、自分の内部が少しずつ変化していった。この作品はそのほとんどが、人の声で構成され、両親や友人からのインタビューを中心に成り立っていた。本番はそのベーシック音の上でさらに演奏を加えていく方法で行われたが、その公演の直後、自分の内部が限りなく白紙状態になるのを感じた。それ以来、ただの「感情」だの「表現」という言葉自体にとらわれないようになった。音楽をすることは「表現」にほかならないのだろうが、そうではない別の感覚が芽生えはじめた。これは、絶対に言葉では表せないことだが、自分の中には決定的な「経験」として刻み込まれた。 それ以来、内側にこもる孤独感も自己満足感も、外側に向かう虚無感も嫌悪感もどこかに消えてしまった。ただ音楽をやればいい。そう思えるようになった。今回の新作制作の出発点はこういったことからきている。まだどんな音になるのかは、自分でもさっぱりわからない。ものすごくわかりやすいものになるかも しれないし、反対かもしれないし、1枚ではおさまらないかもしれない。ただ、過去の音からは明らかに変わるだろう。実際の制作過程も多少変化があり、声や生楽器はもちろんReasonなどバーチャルのデジタル・モジュールも使用している。ほとんどがコンピュータ上で録音され、いっさい本体を出ずにCD焼きまで いくことも可能だ。ただ最近の技術の発達に関しては、はっきり言ってついていけない。新しいものはどんどん試すが、結局使う行為そのものに興味がいってしまう自分に気が付く。これからのコンピュータミュージックは皆がほとんど同じ環境で制作されていくだろう。物さえあれば音が作れる時代にすでになっている。だからこそ、音楽へ向かうパッションが誰よりも、切実に必要になる。結局残っていく音楽はそういうものだろう。デジタルの落とし穴に落ちることなく、創作する。それが今回の新作のもうひとつのテーマになるだろう。ともかく作業はこれから本格化する。
畑中正人
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