「運」とは何だろう。この実在のない運という存在に人は惑わされる。持論から言えば、運とは別にあってもなくてもどちらでもいい。自分にとって運とは、偶然と必然の間にしか存在しないものだ。運があれば何をやってもうまくいくかもしれない。だが、そんなものがなくても本来は何とかやれるものだ。ただし、継続した力と経験値があれば、という条件付きでだ。別に自分は偉そうなことをいえる立場では、ない。しかし、特に学校の授業で伝えたいことが正にこれだ。他はどうか知らないが、最近は地道に努力することを極端に嫌う若者が多い。というより、してもいないのに嫌う、いわば食わず嫌いだ。例えば、ミュージシャンになりたいと思う。たいていは、誰もが羨む所謂「ミュージシャン」に憧れる。しかし、実際はそんなに甘いものではない。一番大切なのは、「ミュージシャンになる」ということは、「ミュージシャンであり続ける」ことだということ。その道に向いていないだとか、自分がミュージシャンかどうかは、自分で決めることだ。決して、他人のものさしで自分を計ってはいけない。スポーツ選手でもない限り数字や成績に左右される必要もない。1位も2位も、金持ちも貧乏もへったくれもない。重要なのは「音楽をやり続ける」ことだ。それがなければ運など巡ってこない。もしも巡ってこなければ来るまで粘る。自分自身の創作意欲があるうちは「あきらめ」などという言葉は浮かんでこない。本来音楽の中には性別も年齢も国籍も存在しない。だと言うのに、若い方がいいだとか、今は女性ボーカルの方がいいだとか、歌詞は日本語がいいだの、いや英語の方が格好いいだの、そんなくだらない論理や議論はレコード会社かメディアが作り上げている幻想にすぎない。「自分」という表現回路さえ持っていれば、誰にでも開かれている表現媒体なのである。このことを忘れていては、到底長続きはしない。「運」は頼るものではない。「運」は自分で手繰り寄せてなんぼのものだし、「運」だけで音楽活動は出来ない。明確な自己のコンセプトを持ち合わせ、それを誇りに歩き続けることが、将来の人生を豊かにするのだと思う。しつこいようだが、運があるかないかは問題ではない。とにかくミュージシャンであり続けること。そのためには何が必要なのか?それはその人それぞれの中にしかない・・・。最後に、「継続は力なり」という言葉は真実だということと、地道に努力することは決して格好悪いことではないということを念押しして、今日は終わりにします。
畑中正人
http://www.hatanakamasato.net/