シンフォニーの作曲。
今の自分のやりたい音楽からしてみれば負の方角。
最もヨーロッパ的で最も効率の悪い演奏形態。
とっくの昔に聞き飽きた、退屈な音楽。
ベートーベンもモーツァルトワーグナーもどこか嘘臭くて
結局好きになれなかった。
それでも作ろうとするのは、作曲家のただのエゴか、自己満足か。
ヨーロッパ的視点で作曲とは結局のところ、機能でありシステムだ。
調性だろうが無調だろうがその枠を越えることはなかった。

「現代音楽」なんて、とっくに過去だ。
50年代以降から、別にたいして変わってない。
それでも、「現代音楽」の響きを聞くと不安や不快に顔をゆがめる
聴衆がいるのはいまもむかしも変わらない。
やはり、ヨーロッパではいまでもバッハが原点であり、シェーンベルク
が洗練であり、 ドビュッシーが華麗なのか。

上流階級の家で聴いたバッハの曲のピアノ演奏。
音のつぶが綺麗に揃い、きらびやかな動機の展開に目をほそめてほくそ
笑むドイツの人々。
この光景に何の価値も見出せない自分の視点は異常なのか。

それでも一ヶ月以上もシンフォニーのために自分のアイディアを追った
り、設計図を直したり、もしくは捨てたり。
書きたい音は多くない。ましてや才能を確認したいわけでも、個性を表
現したいわけでもない。
ヨーロッパ各地のコンペへ出品するからといって、この作品が評価され
ようが批難されようが無視されようが、そんな事はどうでもいい。
この機会に耳を開いてみてはいかがですか?と提案のつもりで作曲した
ところで、大きなお世話だ。

それでも作業が続く。
やはりこれは作曲家のただのエゴか、自己満足か。
拡散していく意識にすら無関心で音を紡いでいけば、その先には何かが
見えるのか。

誰かが「西洋音楽はパズルなんだ」と言っていた本の一説を思い出す。
同時にその人は「アジアの音楽は水のようだ。その流れを止めることは
できないよ」とも言っていた。
その言葉の本意はリスペクトなのか、ただの支那趣味か。
その水の流れを無理矢理止めて、自分達の優位性、正当性を押し付けた
のはヨーロッパではなかったのか。

こんな想いに押しつぶされるくらいなら、誰の手も届かないところで、
馬鹿にされながら音楽を作っているほうがマシというものだ、
という諦め。

だからといってコンピュータによる即興演奏が救いかと言えば、こんな
やり方で果たしていつまで興味を持てるのかわからない。

それでも音楽を続けるようとするのは、何の現れなのか。

この空気の中に融けていくような音。
誰の耳を誘惑するわけでもなく、ただ耳が変容していくような音楽を。

畑中正人
http://www.hatanakamasato.net/