方角

もしも音に方位というものがあったとしたら、自分の場合は、いつも確実に「北」を向く。ただ単に北だけを注視しているのでもなく「北」という方角を確認しながら他の方位へ行ったり来たりしている感覚。尖った木々の葉に、冷たい風、広い空、深い青の海と地平線。自分にとっての「北」はいつもそんなイメージだった。これは理屈でも何でもない。
体に刻まれたものだ。コンピュータのデータのように簡単に書き換えられるものではない。
でももしかしたら、その風土にある色や形、匂いや感触はそれこそデータのように体内に蓄積されているのかもしれない。
そこにはあまり民族性も歴史も関連の薄い、「地域性」だけ。そこで何を感じて生きてきたのか、の方が重要な気がする。もう少し音楽的に見たら、その地域の音響特性はどんな状態だったのか。南や東や西、もしくは地形によってどんな違いがあるのか。反響の多いエリアだったのか、もしくは音が周りに吸収されてしまうような場所だったのか。
自分の実家は所謂住宅地。すぐ近くのちいさな野球場やグラウンドを経由してその先には湖があった。逆サイドには住宅があり、道路があり、それを越えると市街地があり、そのもっと先には海があった。子供の頃はまだ全てがアスファルトではなく、一部は土もしくは砂利だった。だから足跡は「コツコツ」ではなく、「ザッ、ザッ」に近い音だった。林や森にもよく行ったが、家ではいつもテレビを流していた。
ひとつずつマッピングするように、自分の周りの音の配置を思い出していく。はじめは狭い範囲でしかなかったものが、いつしか自分の部屋を飛び出し、町を網羅し、やがて遥か遠
い「どこか」までたどり着く。音で見る俯瞰図を意識しただけで、上辺だけの地域性や民族性は簡単に剥がれ、自分自身にとっての何らかの「方角」が見えて来る。
いま、自分はどこに居て、何を考え、何のために、どこを向いて音を出しているのか。聞くべきものは 何か。直感に頼るよりは常に周りを確認しながら手探りで仕事をすすめていく。
一辺倒の「地域性」よりも、いくつもの場所への「順応性」。自分にとっては重要な、基本OSの一部。それでも、もしも音に方位というものがあったとしたら、自分の場合は、いつも確実に「北」を向く。でもそれはそれで重要な事だ。方位磁石が狂うよりはマシだから。
畑中正人
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